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    三後醍醐の新政権を成立から足利义満が南北朝合一まで

    正庆2年(1333年)には後醍醐が隠岐を脱出して伯耆に滞在し、それ以降、朝廷の政治的行为をすべて取り消した。

    後醍醐は、京都に帰还するし、後伏见の政务が停止され、光厳が廃位されたのはもちろん、後醍醐はそもそも元徳3年に自分が廃位された事実自体を认めず、隠岐に配流されていた间も自分はずっと天皇に在位していたという立场をとり、従って光厳の即位と在位も“なかったこと”にされた。後宇多の遗言はなお有効であり、いったん自らの退位を认めてしてしまえば、治天として政务を执る资格も子孙に皇位を伝える资格も失われかねないことを後醍醐はよく承知していたのである。光厳にはいちおう上皇の称号と待遇が与えられたが、それは通例の前天皇に対する优遇措置ではなく、あくまでも皇太子の地位を辞退したことに対する褒赏であることが明示された。光厳から将来治天として政务を执る资格を夺う措置であった。後伏见は前途を悲観して出家している。康仁も皇太子を廃され、亲王の称号までも夺われた。翌年、持明院统の地位は完全に否定された。

    でも、足利尊氏の离反ため、建武の政権が崩れる、南北朝へ歩いった。

    その时期は後醍醐がさまざまな凶暴政策をしまった。

    北畠顕家の「顕家谏奏」は「もしこの意见を闻き届けていただけないなら、自分は天皇のもとを辞して山中にこもる」と激越な文章で结ばれている。

    だって、後醍醐の建武政権は京都のみを重视、後醍醐が计画した大内里造営计画でさまざまな临时の増税が民心の疲弊と各地の反乱の要因、恩赏の不公平、宴会で莫大な费用を使っていたこと、朝令暮改的な行动、官位相当制や官职の世袭请负制を打破など、それらの新政は公武の离心と反乱の主因であろう。

    正平三年(1348年)、高师直が北朝军势を率いる吉野を袭撃し、四条畷の戦いで楠正行を败北されて、後村上天皇も纪伊花园へ一旦难を避けたが、後贺名生へ移った。南朝が大危険である。

    でも、観応元年(1500年)、つまり二年後の南朝正平五年、足利氏が内纷であった。観応の扰乱をよばれた。翌年足利尊氏は光明寺合戦と打出浜の戦いに相次いで败北、足利直义が高师直一族を灭亡した。同年十月、尊氏は直义を追讨ために、北朝を放弃、南朝と和睦、これは正平一统と呼ぶ。

    その後、尊氏は南朝後村上天皇の直义追讨の纶旨をえる、関东へ出阵し、萨埵峠の戦いと相模早川尻の戦いを経つ、正平7年(観応3年、1352年)1月、鎌仓に追い込み降伏させる。

    そのごろ、北畠亲房は北朝持明院统を彻底的な灭亡を计画、一时的に京都と鎌仓を夺回した。その计画の実质は、持明院统は彻底的な灭亡なら、真実の南北朝の统一もえる、足利氏も幕府の合法性のため、南朝を臣服せざるを得なかったであろう。

    确かに、北畠亲房は北朝の光厳?光明?崇光の3人の上皇と皇太子直仁亲王を拉致、贺名生へ移され、幕府と北朝は深刻な政治的危机に直面することになったのである。

    まず、南朝は尊氏の征夷大将军を解任、幕府の存在が大危机である。北朝朝廷も治天?天皇?皇太子?神器不在の事态に陥った。つまり、幕府も、朝廷も政権自体が法的根拠を失ってしまう状况になった。

    北朝?幕府侧には政务の中心たるべき治天の君?天皇が不在となり、全ての政务?人事?仪式?祭事が停滞することとなった。この停滞の影响は甚大で、公家?武家ともに政治机能不全に陥ってしまった。

    「园太暦」のは、その时、南朝に対する上皇?亲王返还交渉で、従来の両统迭立が回复、せめて皇太子直仁亲王を返还、後村上天皇の皇太子として皇位継承であった(観応2年12月15日?17日条)。だけど、南朝との交渉が决裂したが、北朝?幕府侧光厳上皇の皇子弥仁王が天皇となることは决定せざるを得なかった。しかしながら、皇位継承に当たり、当时の先例では、神器がなくとも最低限、治天の君による伝国诏宣が必要とされていた。しかし、诏宣すべき上皇の不在が最大の课题となっていた。

    その问题を解决ため、事态を忧虑した道誉、元関白二条良基らは勧修寺経顕や尊氏と相计って、光厳?光明の生母広义门院に治天の君となることを要请し、困难な折冲の上ようやく受诺を取り付けた。その前、女性治天の君は従来先例が无いである。

    もちろん、観応3年6月25日に良基は広义门院から関白「还补」の命を受け、それも良基が広义门院に治天の君となることを同意の一つ条件であろう。

    この过程で和平构想に失败した公贤とその縁戚である一条経通?鹰司师平らの政治力は失坠し、政务は良基及び九条経教?近卫道嗣ら新帝支持を决断した少数の公卿らによって运営していくことになる、それは良基の「天下独歩」へ始めるであろう。

    だが、朝廷では三种の神器のない天皇の即位に対して异论が喷出した。その际、良基は「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が玺(八尺琼勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている。

    後白河法皇が後鸟羽天皇を即位させた例にあるとはいえ、だたし、後鸟羽天皇より、北朝の権威は大幅に低下し、女性治天の君はもちろん异例、権威の失坠も当然であった。そして、この一连の流れは正平一统と相まって、後に北朝でなく南朝に皇统の正统性を认めるも北朝の権威が低下の一つ原因であろう。

    6月3日、幕府を代表した佐々木道誉が勧修寺経顕を通して広义门院へ上皇の代理を申し入れたが、広义门院は三上皇?亲王の拉致に全くなすすべなかった幕府及び公家达に强い不信感をあらわにし、义诠の申し出を完全に拒否した。広义门院の受诺を得るほかに解决策が皆无の幕府は、広义门院へ恳愿を重ね、6月19日にようやく承诺を取り付けるに至った。

    広义门院が上皇の役割を代行することは、事実上、広义门院が治天の君として院政を开始することを意味していた。実际、6月19日以降、政务?人事に関する広义门院の令旨が出されはじめており、6月27日には「官位等を正平一统以前の状态に复旧する」内容の広义门院令旨(天下一同法)が発令され、この令旨により、それまで停滞していた政务?人事?仪式などがすべて再に动き始めることとなった。弥仁王も同年8月に践祚して後光厳天皇となった。南朝は、上皇ら拉致により北朝?幕府侧を回复不能の穷状へ追い込み、圧倒的な优位に立ったはずだったが、広义门院の政务受诺によりその优位性をほぼ完全に失ってしまった。

    正平12年(1357年)2月に光厳院、崇光天皇と直仁亲王とともに帰京する。でも、不测の事态もあった。皇位を追われた崇光院と後光厳の関系は微妙なものがあり、応安3年(1370年)8月に後光厳が自らの子息绪仁への譲位を望むとともに、両者の関系は正式的な决裂した。崇光院は即位の事情から後光厳の天皇となる正统性を疑われており、绪仁を正式に皇太子に立てることもできなかった後光厳に対し、逆に崇光は自らの皇子栄仁の即位を要求していた。

    この状况に対して、幕府管领细川頼之が指导する幕府で不介入方针をもって、最终的には後光厳に押し切られ、後光厳から绪仁への譲位が実现した。

    その时期、崇光は後光厳に対する连続の挑戦を行く、南北両朝の京都争夺とともに、王家の権威は不断下げる。南朝対策など政治は胶着状态であったが、春日神木の入洛など寺社势力による强诉が相次ぎ朝廷仪式は衰退するなど、深刻な状况であった。

    応安3年、兴福寺内纷を巡る春日神木の入洛があり、廃朝状态となる。後光厳上皇は强诉を镇圧しようとするが、衆徒たちは激しく抵抗して神木を洛中に留めて後光厳を支持する公卿を放氏処分とする。このため後光厳は孤立した。

    康暦2年(1380年、南朝天授6年)、十市远康ら南朝方武家に夺われた寺社领の返还を求める兴福寺の大衆が春日大社の神木を奉じて洛中に强诉に及んだ(康暦の强诉)。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宫中行事が停滞する中、三代将军足利义満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、一时中断していた御游始?作文始?歌会始などを立て続けに大々的に再兴して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市讨伐の约束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による强诉を失败に终わらせて寺社势力に大打撃を与えた。

    义満は永和4年(1378年、天授4年)3月に右近卫大将に任ぜられ(征夷大将军と近卫大将兼务は惟康亲王以来)、5か月後には権大纳言を兼务して以後、朝廷の长老である二条良基の支援を受けながら、公家社会の一员として积极的に参加する姿势を见せる。

    永徳3年(1383年、南朝弘和3年)には武家として初めて源氏长者となり淳和?奨学両院别当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両势力の顶点に上り诘めた。摂関家の人々にも偏讳を与えるようになるなどその势威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆无に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し进めた。

    右近卫大将として、行幸?节会などで重要な职务を果たす必要があり、宫中の故実作法や文化教养に通じている必要があった。そのため、良基による义満への礼仪作法を教えてしまった。それは北朝と室町幕府の一体化を进めて、権威大幅に低下な北朝の安定化戦略の第一歩であろう。

    永徳2年(1382年)4月11日に後円融天皇は息子の後小松天皇に譲位した。その原因大体は义満に対する不満であろう。

    永徳3年、後円融は义満を対抗するため仙洞御所を访问した足利义満との面会を拒否した。ただし、义満は仙洞に参内せず他の公卿も远虑したため、仙洞の机能が停止することになる。後円融は朝廷の事务に积极的に介入した活动が完全な失败した。

    2月1日には出産を终えて宫中へ戻った妃の厳子に対して义満との密通を疑ってこれを殴打、母亲の広桥仲子の説得や义満による医师の派遣も効果がなく、11日には爱妾の按察局が义満との密通を疑われて出家させられた。困惑した义満は二条良基と协议して、15日に上皇の信頼が厚い里松资康?広桥仲光を派遣して上皇の相谈に当たらせようとしたが、これを闻いた上皇は义満が自分を配流しようとしていると思い込み、持仏堂に笼って切腹自杀を図るなどの騒动を起こしている。

    18日に义満が院に出向いて宥めるとようやく上皇の心理は和らいだものの、治天の君の権威は失坠して再び苏ることはなかった。一条経嗣は「圣运之至极」と书き记している(荒暦永徳3年1月9日条)。

    终わりに

    义満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が明徳4年(1393年)に死去し、自己の権力を确固たるものにした义満は応永元年(1394年)には将军职を嫡男の足利义持に譲って、従一位太政大臣に昇进、政治上の実権は握り続け、事実上で公武统一的な政権を成立した。

    翌年には出家して道义と号した。义満の出家は、征夷大将军として武家の太政大臣?准三后として公家の顶点に达した义満が、寺社势力を支配する地位も得るためであろう。

    応永2年には九州探题として独自の権力を持っていた今川贞世を罢免する。応永6年には西国の有力大名?大内义弘を挑発し义弘が堺で挙兵したのを机に讨伐し、西日本で义満に対抗できる势力は排除された。

    応永13年(1406年)後小松天皇の母通阳门院厳子死去、义満は天皇一代に二度の谅闇は不吉であるとして、その室日野康子を後小松天皇の准母に立てて谅闇を回避させた。また祭祀権?叙任権などの诸権力を天皇家から接収し、义満の参内や寺社への参诣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。応永15年3月に北山第へ後小松が行幸したが、义満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宫中において次男?义嗣の元服を亲王に准じた形式で行った。それらも皇家の権威ほとんど存在しないことであろう。

    同年、义満死去、朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を赠られるが、4代将军となった子の义持は辞退している。室町中期、赤松満佑が六代将军义教を杀害、幕府自身も混乱な状态であるし、その时期以降応仁の乱を経て明応の政変まで皇家の権威も徐々に回复だと考えられる。

    つまり、天皇権威を崩壊过程は、まず、自主的な财政権力を失う、一旦その権力を失うなら、院政の财政的基盘も存在しない。そして、後嵯峨上皇が自らの後継者を指定しないだから、王家の分裂も当然であった。

    自主的な财政権力も失うし、王家の分裂もあるし、その状态で天皇家は南北朝时代へ歩いて、南北朝时代の大乱の中で、権威もちろん迅速に崩壊であろう。

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